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[69] Re: 放送大学出願しました

投稿者: ジャッキー 投稿日:2021年 3月16日(火)02時09分17秒   通報   返信・引用 > No.68[元記事へ]

涙が出るくらいすばらしいタイトル! ありがとうございます(誰目線?)。
後輩ができて嬉しい限りです(先輩目線)。
しかし! 僕の友達で放送大学に落ちたやつもいるのでまだ油断はできません。不合格通知書、見たときは笑いましたね。酒がおいしかったです。書類不備だったそうです。



いま、友人に勧められて今さら(?)森サン(といっても森達也)の『A3』を読んでおりまして、さきほど上巻を終えました。そこにこんな記述があります。

※「>」は引用、「>>」は引用内引用(森サンによる引用)


>……時おり思う。まるで鏡のような男だと。信者は麻原の本体を見ていたのではなく、麻原という鏡に映る自分を見ていたかのようだ。だからこそ信者によって、その印象はばらばらで決して収束しない。

>>「私の性格というものは作られたものである。作られたものとはどういうことかというと、それは演技によって作られたものである。本質的には私の性格は存在しない。よって厳しいフォームを形成することもできれば優しいフォームを形成することもできる」
>>
>> これはある説法の中で、自信の正確を評して語ったくだりである。素顔をまったく知らない者なら「そんな戯言を」と一蹴できるが、私には強い納得と同時に響いてしまう。現実に見てきた姿がそうで、周りにいる弟子や状況によって面白いように変わり、方法論ばかりかそれこそ振る舞いや言葉遣いまで変わるから、一つの固定的な人物像で捉えようとすると本当に混乱する。
>>『オウムはなぜ暴走したか。』早坂武禮


 森サン(83)も、きっとこういうところがあるように思います。インナーサークルの天才。よく「人垂らし」なんて言われたりもしますが、会う人によって、あるいはその場によって言うことやること、たたずまい等が違うというのが森サン(83)であると、複数の文献等で見聞きしております。

 ちなみに最近読んだ本だと関根弘という詩人による評伝『花田清輝 二十世紀の孤独者』に通底する花田観も、ちょっとそれにかすっています。花田は「わたし」というものがどこにも存在していない、というところからスタートしているのだ、と関根は言います。(より正確にいえば、花田自身がそのように書いていたことを関根は強調しています。)
 コアにあるのは『復興期の精神』「群論-ガロア-」(1942年)の末尾にある以下の文章。

>緑いろの毒蛇の皮のついている小さなナイフを魔女から貰わなくとも、すでに魂は関係それ自身になり、肉体はものそれ自身になり、心臓は犬にくれてやった私ではないか。(否、もはや「私」という「人間」はいないのである。)
(講談社文庫『復興期の精神』から)

 その他にも随所にそれにまつわる記述はあるのですが、個人的に好きなのは花田と埴谷雄高とのかみ合わない(と関根は考えている)対談です。


>>花田 実体概念は古いな。機能概念でないと……それが平野君の言っていることではないか。
>>埴谷 新しい、古はいいが、ヒットラーにあるものは多かれ少なかれ強烈な簒奪者にはすべて発見されるね。
>>花田 だからその非歴史的なとらえ方を僕は古いと言っているわけだ。やはり歴史的な段階でそれぞれちがって来るので、それを今日的な観点から見れば、すべて機能概念としてとらえて行っていいというわけだ。
>>埴谷 もちろん今日的な概念から見ていいわけだ。
>>花田 そうなるとすべてのその実体はなくなってしまう。
>>埴谷 いやあるよ。歴史の底流にあるそれはいまだに向うから吾々をとらえる。
>>花田 実体ではないのだ。
>>埴谷 では何かね。
>>花田 社会的関係の集中的な表現としてあるだけだ。
(『花田清輝 二十世紀の孤独者』P145-146から孫引き)


と、このように花田が(なんと戦前から!)「関係」という言葉を使っているのが僕には非常に興味深かったです。なんというか僕の言いそうなことだなと。

で、このような「関係」ということは、きっと森サンと無関係ではない。森サンという存在は、ひょっとしたら麻原にも結びつくかも知れないし、偉大なる花田清輝にも結びつくかもしれない。

だから僕は森サンのことが気になるんだなあ、とおもったのでございます。
「社会的関係の集中的な表現」という機能概念として見たら面白いのではなかろうか、と。



>「大概、ノリで形作られる人格というもの」
これとはちょっと違った趣向になったかもしれませんが、僕もけっこうそのあたりのことは考えているのかもしれません。
っていうか僕なりにいえば「人格などない」ということになるのかも。人格なんて、大概はノリでその都度決まるんだから、確固たる人格なぞというものを認めること自体、近代の誤謬なのでは!てきな。




放送大学のテキストは、良いものは本当に良いです。授業も良いものは(見つけるのはやや大変ですが)良いです。ちなみに学習センターの図書館などに行くと教科書が閲覧できるはずなので、そこでパラパラと見て履修科目を決めることもできます。また、読みたい教科書を取り寄せて借りることも、もちろん教科書だけ買うこともできます。
でも、やっぱり履修してレポート送信して試験受けて、っていうゲーム性が何よりの魅力かもしれません。



> こんにちは。昨晩は守庚申チャット参加しながら、何書くか思いつかず、無言で立ち去る幽霊のような振る舞いになってしまい申し訳ありません。森さんは「インナーサークルの天才」という理解をしていて、たしかに発言はダメダメだよなと思うのですが、個人的にはそのこと自体よりも「大概、ノリで形作られる人格というもの」のことについてもっと考えたいと思っていて、まだ全然頭の中で煮詰められていません。
>
> ところで、ついに放送大学に出願しました。手続きに問題なければ4月から大学生に戻ります。まずは数学1科目で様子見ですが、哲学史や自然科学諸々やっていきたいところです。早く入学金振り込んでテキスト読みたい!

http://ozakit.o.oo7.jp/


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